理想通りにはいかない

最近よく考える。

精神病や精神障害発達障害の人たちと幸せに生きていく術はないのかと。

大体の人はそういう人たちを見て、きもいだとか死んでほしいだとか見たくないだとか、そういう感情を抱いているのが本音なのではないだろうか。もちろんそういう人だけじゃないこともわかっている。

私は兄が精神病と障害を患っているからその人たちよりは理解があるだろう。いや、理解というよりは慣れているが正しいか。

だが、兄以外の障害者の人たちと接したことは皆無に近いし、実際外で見るとなんともいえない不快さが襲ってくる。TwitterではSAN値が下がる感覚に襲われると書かれたツイートを見かけた。私もそうだと思う。


精神病や障害者の人たちにも幸せに生きてほしいし同等に生きてほしいし、かけがえのない命を持つ人たちという理解もしている。

しかし、実際介護施設や援助施設では、その人たちと向き合い続けることができず、思いやれず、暴言やいじめ、暴力がとびかい、もはや当たり前のように行われているところもある。昔相模原で起きた障害者施設の殺傷事件の犯人は障害は本人も周囲も苦しめるという理由から障害者の安楽死制度を望んでいた。(もちろん薬物に手を染めていて心神喪失ぎみであったこともあり犯罪を犯してしまったのもあるだろうが)

私はその犯人の起こした行動は最低だと思ったが、考えを否定できない。


障害者の人たちも生きていく過程の中で幸福も感じることがあるはずだ。でも、その数が圧倒的に他の人たちと比べて少ないのではないかと考えてしまう。

障害はある人にしかわからない苦しみや思いがきっとある。それがわかったら、分かり合えたらどんなに楽だろうか。それがわからないからこんなにもどうすればいいのか分からないと悩む。


自分の話になるが、私の兄は重度の障害者であり、意思疎通もあまりできない。幻聴幻覚を伴う病気を患っているが、意思疎通ができないためどういうふうに見えて、どんな風に感じ、そして周りがどうしてあげたらいいのか何一つわからない。

薬を飲まなきゃ、興奮が強まり、発狂したり大声を出したり歩き回ったりしてしまう。でも薬を飲んでいないときの兄の方が意識ははっきりしているように感じる。薬を飲んでいることでたくさんの副作用も出ている。

また、施設に通っているが、泊まる頻度が介護をしている両親の年齢が高齢になってきたことから増えている。ゆくゆくはそこに住むことになるだろう。だが、施設は先ほど言った通り暴力や暴言があるのかもしれないし中のことは私たちはわからない、だから兄のことを考えると行かせない方が兄的には幸せなんだろうと思う。

兄にとっての幸せを私たちは尊重することができない。周りの都合で決めてしまう。こんなことをしてでも生きていかなきゃいけないのはなんて苦しいのだろうかと勝手に思ってしまう。


みんなが幸せに平和に暮らすことがこんなにも難しいだなんて子供の頃は思いもしなかっただろう。知りたくなかった。


他人にとって自分と違う存在も、精神的に不快にさせる存在も、かえがえのない命であり、幸せになる権利を持っている。

しかし偏見と差別はなくならないだろうし、そういうふうにできている。自分もそれをしない人間には程遠い。

それに、偏見や差別などをする人たちも自分の幸せと精神を保つために起こしている行動であって、わざとやっているわけでは無い。例え差別をしなくなったとしても、関わることでストレスもかかるだろう。

同じ人間として、同じように接することはとても難しい。そうしようとしたら逆に自分が疲れることもある。


正解が見つからない。

どうすれば障害者や精神病の人も幸せであり、周りも心地の良い生活ができるのだろう。


障害や精神病をなくす薬がさっさと開発されたらいいのにと何度思ったことだろう。


拙い文で、とても分かりづらい文章で申し訳ないです。書いてるうちに訳わからなくなってました。ずっと吐き出したいことが吐き出せてよかった。